106号室<メッサー物語り>


「戦後の荒廃したドイツで、フェンド青年が追い求めた『夢の車』、それは…。」


ここではメッサーシュミットという車がどういった事情で、どのような人の手によって開発されたのかを、英国のメッサーシュミットオーナーズクラブから出版されている書籍" The Story of the MESSERSCHMITT"から紹介したいと思います。(内容をより確実なものにする為に、Jens Kron著書の"messerschmitt Kabinenroller"やvon Reinhold Ziegler編集の"Messerschmitt-Kabinenroller"も参考にさせて頂きました。)

(辞書をひきながらの下手な和訳ですので、間違いが多々あるかと思われます。徐々にアップしていきますので宜しくネ〜(^^;)



■The History of the Messerschmitt.


■フリッツ・フェンドの夢

第2次世界大戦後、ドイツのおもな産業はほとんど失われていました。もちろん、航空機、船舶、戦車や銃器などのおもな軍需産業は占領軍により完全に封鎖されていました。自動車産業等の再開さえも危ぶまれていました。鉄鋼業の中心であったルール地方は広範囲にわたって占領軍による攻撃をうけ、それに関連する多くの製造産業はことごとく破壊されていました。

『フリッツ・フェンド』はその時代を生き抜いてきた一人でした。フェンドは戦時中、ドイツ国内でジェット戦闘機を初めて開発したメッサーシュミット航空機製造工場で「技師」として働いていました。

戦後、技師や資格のある技術者達の多くは占領国に捕虜として送られていきました。兵役から開放されたフェンド青年は故郷から離れて遠くに送られることは当然望まず、むしろ自ら占領軍支配下の農場で働くことを選びました。農場では農機具の修理に没頭しました。農場での仕事はもちろん彼の技量や経験からは取るに足らないものでした。

国内の状態が徐々に落ち着きを取り戻し安定してきた頃、彼はある機械会社に技師として弟子入りしましたが、あいにく長く続けることは出来ませんでした。
働き始めたばかりのある日のこと…彼の父親が占領軍に召集された為に、ローゼンハイムにあった小さな店を閉めなければいけなくなった…という知らせを受け取ったからでした。26才になったばかりのフェンドは、本当は技師としての仕事を続けたかったのですが…両親を手助けするために諦めざるを得ませんでした。彼は両親の仕事を引き継ぐ為に会社をやめ、ローゼンハイムに移り住みました。

この頃、フェンドは昔っから頭の中で思い描いていたある「新しい形の乗り物」の構想を練っていました。

この当時、人々は自家用自動車を切に要望していたのですが、自動車産業はまだまだそれに応じれるような状況ではありませんでした。彼の構想していた「新しい形の乗り物」は数年後には「三輪車」となっていました。しかしその乗り物は今迄の「三輪車」ではなく、風雨から乗員を守る為のフードが付いており、どんな悪天候下でも使用可能な「乗り物」でした。


■人力三輪車の構想

人力」で乗り物を動かすには2つの問題がありました。まず1つ目の問題は…車重であり、これにはフード等の重量を出来るだけ小さくする必要がありました。2つ目の問題は…どんな勾配の道路でも走行可能であるという事でした。一般的な三輪車だったら、丘を登っていて途中で動かなくなった場合、単に車から降りて押せば良いだけです。しかしフェンドが構想していた「車室が完全にカバーされた車」だとこういった事は出来ません。こういった場合でも乗車したまま走り続ける事が出来るように、フェンドは「変速ギアーシステム」を考案しました。現代だったらこんな仕組みは常識なのですが…道路状況にあった「ギアー」を選ぶことにより自転車は自由に走ることが出来ます。

残念なことに、フェンドは「変速ギアー」のデーターを持ち合わせていませんでした。「変速ギアーシステム」を設計するにあたり、彼は新たに実験する必要がありました。

彼はいくつかの条件下で、階段をかけ登るという「実験」を行いました。このようなまるで「拷問」のような実験は、今では可笑しく感じられるかもしれません。彼はいろんな種類の重りを持って…歩く早さや走る早さ…1段づつや2〜3段づつ…と条件をいろいろと替えて階段を登るという実験をくり返しました。彼はこれらの実験から三輪車に使う「変速ギアー」が、どのような効果を発揮するのかを知りたかったのです。一度に2〜3段づつかけ登るのは「ハイ・ギアー」に相当し、1段づつ登るのは「ロー・ギアー」に相当しました。

この結果「階段は1段づつ駆け上がるほうが、数段づつ駆け上がるよりも体力を消耗する」という事も分かりました。フェンドはこれらの実験結果を集めて図表化し、考えうる「ギアー比」を算出しました。また彼は「疲れずに推進力を得るためには、子供のペダルカーのように前方に配置された推進用ペダルをこぐような着座位置がもっとも良い」という結論にも達しました。体力を保ちかつ疲れさせない為に、身体の位置やペダルの取り付け場所などのテストがくり返されました。そして「座席の背もたれの角度は、垂直とリクライニングの中加減ぐらいが最適である」ということも分かりました。

多くの実験の結果、ついに新型車両を製作する計画が持ち上がりました。


■人力三輪車『ザ・フリッツアー』の開発

その頃、必要とした車両用の軽量素材はなかなか入手出来ませんでした。方々を探したところ、やっと廃材の形で見つけることが出来ました。こういった困難な状況下にもかかわらず、ついに実験研究用のフルスケールの稼動モデルを作り上げることが出来ました。このモデルは、彼のコンセプトが実現可能であり、また入手しやすい材料から簡単に製作出来る…ということを証明しました。彼はその車両を『ザ・フリッツアー』と名付けました。

1946年、フェンドは車両を製作する為の作業場を探していたところ、ローゼンハイムの工業地帯である古いホールを見つけることが出来ました。彼はそこへ『技術開発製作所-フリッツM. フェンド』という看板を上げましたが、まだ事業許可がおりていなかったので生産を開始することは出来ませんでした。
当時、車両製作の為に必要な工具類はとても高価でしたので、集めるのは本当に大変でした。工具を購入するためにフェンドや彼の家族達は、持っていた宝石類や高価な貴重品を総べて売り払いました。その結果、特に高価だった旋盤もなんとか入手する事ができました。

彼は新しい作業所の会社名にはかなり気を使っていました。ドリームマシンの実験を続けていくためには、十分な財力を保つ必要があったので…どんな種類の請け負い作業でも応じることが出来るように…と苦慮した結果につけた会社名だったのです。

車両を製作する為に必要な材料を入手するのはとても大変な事でしたが、幾らかの援助もあって、ついにプロトタイプのシャーシの実験が可能となりました。
彼の考えに基づき、まずフレームと変速ギアーシステムが組み立てられましたが、ステアリングシステムの組み立て中にある問題がおこりました。ステアリングが彼の考えとは反対の方向に作動したのです。彼のように優秀な技術者が設計や製図の段階でこのようなトラブルの発生を予測出来なかったことは、誠に不思議に感じられます。しかし、事前に予測困難な操縦装置を有する飛行機の製作現場で働いていたフェンドにとっては、このような事は試験走行中に対処すればよい事と考えていたようです。彼の考え出したペダルシステムを使う事によって、実験車両の巡航速度は25km/hに達しました。

1947年10月、彼が考案した荒れ地や坂道そして悪天候をものともせずに走破出来る「三輪車」は、ついにシャーシに載せる「車体」を製作する段階に至りました。
車体の製作には運転者の負担にならないぐらい超軽量で、かつ十分な強度のある素材が必要でした。ボディー用の軽量鉄板が入出来ないということは重大な問題でした。現在ではごく普通に入手可能なプラスチックや風防用ガラス、高純度のアルミ素材さえもこの当時は入手困難な状態でした。ここでもフェンドの発明の才が発揮されました。彼は古い新聞紙をニカワで張り合わせて固めて成型する事によってボディーを作り上げました。これは布地にワニスを塗って仕上げるのと同じような効果が得られました。しかしこの車体は天気の良い日にしか使えないことが分かりました。試しに雨天の日に走ると…紙が雨で濡れて溶け、ついに車体はバラバラになってしまいました。

軽量鉄板が入手困難の為、マシンの開発は当分の間中断することとなりました。


■起死回生となった『身障者用車両』の製作


まだ彼が簡単な臨時仕事に明け暮れしていた頃のことでした。戦争で両足を失ったある男性が彼の元を訪れました。彼は車輪の付いたちっちゃな板切れの上に乗って移動していました。フェンドは「この男性と同じ境遇の人々の為に、何か乗り物を作ってあげなければいけない」と直感しました。さらに彼は「もしクズ鉄から車両が作れて<傷痍軍人協会>の関心を得ることができれば、必要な<素材>を入手出来るかもしれない」とも考えていました。

このような投機に対しては、占領軍からの援助が十分に期待できました。『フリッツアー』の開発はとりあえずおあずけとして、彼は身体障害者の為の車両の開発に没頭することにしました。しかしこの車両用の素材も入手が難しく、また素材を必要とする形に加工することも困難でした。わずかな材料が入手できましたが、そのままの形状では車体のデザインに合いませんでした。入手出来た素材はどれも真直ぐな板状であった為に、加工する工作機械が必要だったのです。

彼が開発した三輪車「フリッツアー」のコンセプトに従って、車体の中心にドライバーシートが配置され、ドライバーの股の間にコントロールレバーがある小さな三輪自転車を設計、製作しました。

この車両の仕掛けは、ギアーを介して動輪と繋がったコントロールレバーを、単に押したり引いたりすることによって車両を進めるという簡単な仕組みでした。またコントロールレバーは同時にハンドルの役目もしており、傾ける方向に舵をとることが出来ました。素材の欠乏は、大切な時間さえも消耗しました。たとえば車輪にあうタイヤを作る為に、わざわざ古タイヤから切り出して製作するというめんどうな作業が必要でした。

しかしついに、この車両は傷痍軍人協会の目にとまる事となりました。協会は大変な興味を示し、数カ月にわたって50台もの発注をしてきました。さらに彼は、なかなか手に入れる事の出来なかった素材をも入手するが出来るようになりました。かれはこの乗り物に『Disabled Driver's Vehicle 身障者用車両』と名付けました。

彼は傷痍軍人協会から1台につき200ドイツマルクを受け取りましたが、マルクの暴落の為に利潤は殆どなく、資金問題の解決には至りませんでした。しかし『身障者用車両』がかなりの成功を納めたことから、彼は傷痍軍人協会に対して新しいデザインの車両の提案をすることを思い付きました。
彼はオリジナルのペダルカー『フリッツアー』に風防をつけ、ステアリングレバーで前輪2本の舵取りをし、そのレバーを押したり引いたりすれば後輪1本を駆動させることが出来るようにアレンジしなおしました。

彼はこの改良型オリジナルペダルカーに乗って傷痍軍人協会の本部まで乗って行きました。「この車両なら身障者を悪天候から守り、さらに気軽に旅にも出かけることが出来るようになる」というアイデアについて彼は協会本部で説明しました。また同時に車体カバーによって、いちいち人の目を気にしなくても良い…という心理的効果も十分に期待できうることを説明しました。傷痍軍人協会は彼のアイデアに大変な感銘を受け、さらなる援助を申し出ました。ついにフェンドは車両製作に必要な無加工のムクの素材を入手出来るようになりました。彼がプロトタイプを走行させたのは1948年の6月のことでした。その車両は本当に不思議な形をしており、まるで車輪のついた飛行機のコックピットのようでした。

1948年6月:手動式のフリッツァー


ミュンヘンの労働省と労働大臣はこの車両にも興味を示し、フェンドに『新型フリッツアー』を持参するように要請してきました。新しい身障者用車両を一目見ようと待ち構えていた労働省の役人達の前で、彼は車両の説明を行いました。沢山の役人達がこぞって試乗することが少し不安でした。もし車の運転に不慣れな者が試乗中にミスをおこしたら…せっかくのプロジェクトが無駄になる可能性があったからです。しかし幸いにも全てがは順調に進みました。役人達はとても感動して、さらに5台の追加注文が得られました。この追加注文は、彼が以前から構想していた幾つかの計画を実行に移す好機ともなりました。さらに希望する素材は自由に手に入れる事が出来るようになり、これで廃材から製作しなくてもよくなりました。


■38ccエンジン付きの『フリッツアー』の誕生


その頃ドイツ経済はどんどん回復し、戦争の焼跡からまるで不死鳥のように甦りつつありました。

当時、小型エンジンを補助動力としたエンジン付自転車がさかんに作られていました。1948年秋、そのエンジン付き自転車のエンジンを『フリッツアー』に使うために、フェンドは38ccのVictoria-Hilfsmotorを1台購入しました。これはもちろん彼独自の発想でしたが、障害者であろうとなかろうと、だれもが当然人力よりも動力による走行を望んでいました。彼はその小型エンジンを自分の『フリッツアー』に組み付けてみました。始めてのテスト走行では40km/hも出ました。車体重量に対してとても小さなエンジンだったのですが本当に驚くべき速度が出ました。成功ではありましたが、しかし同時に幾つかの欠陥も見つかりました。このような速度に対してステアリングとサスペンションが十分に対応出来ないことが分かったのです。その為に再度設計図から書き直す必要がありました。


彼の小さな工房はすでに注文を受けていた5台の身障者用車両の製作で忙しくしていましたが、フェンド自身はすでに最新式のエンジン付車両の開発に夢中になっていました。彼の夢の車両はまさに現実になろうとしていましたが、差し迫っての課題はエンジンを搭載する上での車体の不具合の解決でした。

街中で車両のテスト走行を行っていたら面白い事件がおこりました。彼の三輪自動車はドイツ国内の交通法規のいずれの車両にも当てはまらなかったのです。4輪車ではないし、かと言ってエンジン付き自転車でもオートバイでもありませんでした。その為に警察官にとっては厄介で癪にさわる乗り物でありましたが、フェンドはナンバープレート無しで街中を自由に走り回ることが出来ました。


オリジナルの人力三輪車のラインナップに、さらにエンジン付きバージョンが新しく加わりました。本来の駆動用ハンドレバーはエンジンが故障した時の予備推進力ともなりました。当時使用していたエンジン付自転車のエンジンはとても貧弱でよく故障していたのです。

ある日のこと、思い掛けない幸運が訪れました。ある雑誌に『ローゼンハイムのフリッツアー』という特集記事が掲載されたのです。しかし記者が間違った内容の記事を掲載してしまいました。車両価格は900ドイツマルクで合っていたのですが、エンジンの排気量が38ccのところを380ccと書かれていたのです。これは雑誌の読者に素敵なバーゲンセールと捉えられたようで、新しい車両についての問い合わせの手紙がフェンドの工房宛にどっと届きました。明らかに、過った雑誌記事の内容に多くの読者が勘違いしたわけですが、逆にこのことが多くの人々に『フリッツー』のことを知ってもらえる…という良い広告にもなったのでした。


■幸運な出来事で生まれた『フリッツアー100』


この幸運な出来事から、フェンドは車両により強力なエンジンを搭載する必要がある事に気付き、次のテスト車両の為に2.5P.S.のザックス製100ccのエンジンを入手しました。しかしすでに自転車タイプの車輪では高速走行は無理な状態でした。

1949年初旬、フェンドは新しい車両の生産を始めたかったのですが、小径のタイヤがまだ入手出来ていませんでした。再び試練の時が訪れましたが、彼は前輪に手押し車用の小径タイヤを流用することで対処しました。しかし、駆動輪となる後輪はまだ自転車タイプの車輪のままでした。多くの人々から要望のあった100ccエンジンを搭載した新しい車両『フリッツアー100』をテスト走行したところ、60km/hも出ました。

最初に生産された『フリッツアー100』はフランクフルト近郊に住む顧客が購入しました。フランクフルトへの道のりの途中には、ちょうどフリッツアーのエンジンを供給してくれていた会社がありました。フィヒテル&ザックス社は『フリッツアー』の事を高く評価し、特にエンジンがどのような使われ方をしているのかに興味を持っていました。そういうこともあって、彼等にフリッツアーを紹介するためにフェンド自身がフリッツアーに乗って会社を訪問しました。彼の訪問に技師長はとても感動し、このことがきっかけとなり直ちに提携が結ばれました。この提携関係は1964年にフェンドが最後の車両の生産を終了するまで続きました。

この始めての納車の際に、幾つかの問題が見つかりました。
この当時はまだエンジンは強制空冷式ではありませんでした。冷却空気の取り入れ口はエンジンの前方にしかなかったのですが、十分な速度で走行している時にはこれでも十分な冷却効果がありました。しかし上り坂とかでスピードが落ちている場合や、渋滞で車が動けない場合には当然冷却効果は下がり、その結果エンジンがオーバーヒートする恐れがありました。
もう一つの問題は自社生産の車両で、品質が不均一であったり精度が低いなどでした。例えばガス欠になって始めて、本来5リッターあるはずの燃料タンクが3リッターしかなかったことに気付いた…などでした。

一般的な車と比べて安価でかつ走行費用がかからないということが人気となったようです。フリッツアーを道端に停めるとかならず興味を持った人々が群れをなして集まりました。ある時フェンドがフリッツアーの所に戻ってみると人垣が出来ており、群れをかきわけて自分の車に近付こうとしたら文句を言われた程でした。ある力持ちの大男などは、車を持ち上げて車体の裏側を覗き込んだりしているしまつでした。


1949年4月、フェンドはフリッツアーの宣伝をする為に当時開催されていた技術博覧会へ参加することを思い付きました。残念なことにフリッツアーは会場内に展示することが出来ませんでした。そこで彼はフリッツアーを博覧会会場の玄関脇に展示しました。すると車の周りにはたえず人垣が出来て、すぐに玄関口を塞いでしまいました。とうぜん警察官がやってきて車を移動させられましたが、今度は数百メーター離れた路上に停めているとまたそこに人垣が出来ました。またまた迷惑だという理由から再びさらに遠方へと移動させられることになりました。


■100ccのRiedel-Motorを搭載した『フリッツアー101』


この時点でフェンドは、フリッツアーをより進化させた改良型を開発する事を考えていました。フェンドは100ccで馬力が4.5P.S.にパワーアップされた最新型のRiedel-Zweitakt エンジンを手に入れました。しかし残念なことにこのエンジンも強制空冷式ではありませんでした。この結果フェンドは独自でエンジンに改良を加える事を決心しました。

しかし慢性的な資金不足の為に、プロトタイプは実験を目的とした本当に簡素な車両でした。実験用シャーシには新型のRiedelエンジンと車輪とサスペンション、そして座席とステアリングシステムが付いているだけでした。必須装置であるはずのチェンジレバーやサイレンサー、さらにはフェンダーやブレーキまでもが付いてませんでした。エンジンの始動はギアを繋いでおいての押しがけでした。エンジンが掛かるとフェンドは車へ飛び乗りました。車は動きだしましたが、もともとブレーキが付いてませんので当然ブレーキを掛けて車を止めるということは出来ません。彼は革手袋をはめていましたので、もしエンジンを止めたければ…スパークプラグのコードを引っこ抜きさえすれば良かったのです。しかし…交差点などで他の車とかとぶつかる危険性がある事を考えれば、街中とかでなくどこか広くて安全な場所でテスト走行するのが常識だと思います。むちゃでふざけた行為に思われますが、フェンドにとってはただただ成功を目指して実験に熱中していたがための行為でした。

新型車両『フリッツアー101』の外観はほとんど仕上がり、あとは小径タイヤを供給してもらう為に英国ダンロップ社と契約を結ぶだけでした。小径タイヤは4.00×8で、三輪とも同じサイズでした。三輪ともに良質のタイヤを履かせることにより、サスペンションのレイアウトが改善され、さらに最高速度が70km/hまで出るようになりました。この新型フリッツアーでは今迄の2段式ギアから3段式ギアに変更されました。この変更により上り坂が楽になり、さらに街中ではしなやかに走行することが可能となりました。


ロードスタータイプには透明なフードが装着されました。この透明フードにはプラスチックチューブを膨らませた物が芯に入っていて、形が保たれていました。実験は一見大成功に見えましたが…車走が上がるにつれてチューブが風圧に耐えられなくなり、ペッチャンコになってドライバーの頭にくっつきました。



車両の性能を確かめる為にフェンドは荒れた道を走ってみたり、近隣の高山を登ってみたりしましたが、これらのテスト走行はみごと成功しました。フリッツアーで山を登っていたときのこと、途中でブレーキケーブルが切れるという事件が起こりました。しかしあいにく彼は予備のケーブルを持参していませんでした。さて、彼はどうやって下山したのでしょうか? フェンドの場合、方法はただ一つしかありません。彼はいつも通りに車に乗り込み、ごく普通に山を下りはじめました。普通このような方法はとてつもなく危険な行為で、すぐに車はコントロールを失うと思われます。


彼はフリッツアーに飛び乗ると必死で操縦しました。幸運なことにフリッツアーは超軽量でした。彼は車外に足を投げ出した状態で車体にしがみつき、自らの足をブレーキにしました。彼はどうにか山のふもとまで安全に下ることが出来ましたが、しかし…車のブレーキ替わりとなった彼の靴はボロボロで、二度と使い物になりませんでした。


■『フェンド・オートモービル有限会社』の設立


ローゼンハイムでのフリッツアーの生産は、一ヶ月に10台生産するのがやっとでした。これはなかなか良い商売ではあったのですが、しかしさらなる車両の開発を続ける為には、資金源とはなりませんでした。増産する為にはもっと大きな工場が必要で、その為にはさらなる資金も必要だったのです。彼は新聞に事業の支援者をつのる広告を出しました。数名が援助を申し出てきましたが、いざ出資金が必要となると…彼等は手を引きがちでした。

後にある支援者が見つかりました。彼は自動車工業に対してはなんの知識もありませんでしたが…彼は戦後始めての電気設備協会を創立しており、他の業種にも出資出来るだけの十分な資本を貯えていました。彼以外にも数名の支援者が1951〜52年の冬に見つかりました。フェンドは『フェンド・オートモービル有限会社』という名称で新しい会社を始めることが出来ました。しかし残念なことにこの新しいグループはフェンドにとってはあまり良い会社ではありませんでした。
彼は事業の改善とさらなる増産を行いたかったのですが、彼のパートナー達はひたすら利潤ばかりを追い求めたのです。会社はみかけ上は儲かって成功しているように見えましたが、実は倒産の危機にさらされていたのです。この時点で彼はある者から…会社を維持する為には元航空機会社のメッサーシュミット社とコンタクトを取るべきだ…とのアドバイスを貰っていました。
フェンド・オートモービル有限会社には、すでにさらなる支援者は存在しませんでした。フェンドがパートナー達から会社を買い上げ、これを解散させるのが適切な状況となっていたのです。このようなことは現在では良くある事です。フェンドがこのような強硬手段に出たのは、きっとより大きな援助を受けたかったからでしょう。


■メッサーシュミット博士とフリッツ・フェンド

向って右から
フリッツ・フェンド
ウィリー・メッサーシュミット博士
ハンス技師長、

1952年1月、フェンドはフリッツアーのさらなる改良と発展を示した企画書を携え、戦時中に戦闘機の製造で有名だったリーゲンスブルクのメッサーシュミット社を訪れました。
戦時中フェンドはメッサーシュミット社の兵器工場で働いていましたが、メッサーシュミット博士の航空機開発や改良のアイデアには大変感銘を受けていました。(しかし戦争や戦時中の暮らし向きなどから、その当時の仕事そのものに対してはあまり良い思いでがありませんでした。)

フェンドは、その偉大な博士と向き合い、新しい車のアイデアについて討論を交わしたのでした。


メッサーシュミット社はその当時、航空機の製造が出来ませんでした。その為に列車の修理やら自転車部品の製造はもとより、ミシンの製造までしなければいけない状態でした。メッサーシュミット社の工場敷地内にはまだまだ空きスペースがあり、そこを埋める為にはなにか新しい事業を始める必要があったのでした。

6年ぶりにフェンドは博士と再会して、新しい企画について検討しました。この新しい企画とは…車両は2シーターでタンデムに配置され、プレキシグラスのフードが付いていて、出入りの際にはフードの片側を車体の側面から持ち上げる…という物でした。

博士はフェンドが持ち込んだ企画に大変感銘し、1952年の初旬にメッサーシュミット社と提携が結ばれました。この提携は当初は大成功でした。

元々の1人乗りタイプの車両の生産はメッサーシュミット社へ移されましたが、2人乗りの発展型タイプの車両の開発は、引き続きフェンドがローゼンハイムの工場で行うこととなりました。


■フェンド・カビネンローラー『F.K.150』の誕生


1952年夏、フェンドと彼のチームは2人乗りの新型車両のプロトタイプを仕上げました。『フェンド・カビネンローラー(キャビンスクーター)』または『F.K.150』と呼ばれたこの車両には、高性能の150cc 6.5B.H.P.のフィヒテル&ザックス製エンジンが搭載されました。
この頃にはまだ吹製作や真空製作によるワンピースタイプのプレキシグラスを作る事が出来ませんでした。その結果幾つかに別れた透明部分をくっつけて一つのフードを製作していました。


海抜2,751mのGross-Glockner山脈で行われた新型モデルF.K.150の試験走行のレポートは、とても印象的な広告となりました。広告の内容は次のようなものでした。
強制空冷システムによりオーバーヒートが無くなり、高山への登山も可能となりました。この新型車両があればアルプス縦断も、もう夢ではありません。この理想的な三輪自動車は、四輪自動車では高価すぎるし、かといってオートバイでは満足出来ないという人々にきっと気に入られることと思います。

しかしこの新型車両には構造的な欠点がありました。この車両はセミオートマチック方式になっていて、クラッチとギアーチェンジは一本のレバーで操作する事になっていました。この新しいシステムは比較的簡単な構造だったのですが、しかし多くのガレージでトラブルに対処することが出来ず、修理の依頼が殺到しました。
1953年初旬にジュネーブでモーターショーが開催されましたが、この頃にF.K.150の生産モデルが始めて一般市民にも紹介されました。フェンドはF.K.150をこのモーターショーに出品しましたが、これは大変良い広告となりました。


■商業的な成功を納めた『K.R.175』の誕生


しばらくして、国際新聞に「新型のメッサーシュミットK.R.1752,100ドイツマルクで発売される」という記事が掲載されました。記事では車両の特性として『オートバイと自動車の中間にある理想的な乗り物』と紹介されていました。
この新型車両の発売予告には、一般市民はもとより自動車業界や新聞社の人々も熱狂的な興味を示しました。また我々の間で有名なA.A.(Automobil Asociation)に相当する、A.D.A.C.(Allgemeiner Deutsche Automobil Club)が発行しているドライブマガジンには、『基本的構想は、確かに的を得ている。』と紹介されました。


K.R.175は人気が出て、後には『白雪姫の棺桶』とか『チーズカバー』というニックネームさえ付けられました。また車に乗り込む時のドライバーの姿から『毒ヘビに飲み込まれる人』とまで呼ばれました。


工場では日に18台ほど生産されるようになりました。K.R.175は当時国内で生産されていた360CC以上の車の中でも主要モデルとなっていました。


K.R.175は国外でも広く販売されました。しかしイタリアは輸入制限の問題からそのままでは輸出販売することが出来ませんでした。そこでイタリア国内でライセンス生産するということでこの問題は解決されました。エンジンはMi-Val社で生産され、車両はMi-Val175という名称で販売されました。

生産コストの歩合度や需要の安定度などを考慮して、K.R.175の販売価格を2,100ドイツマルクから2,470ドイツマルクへ値上げしました。値上げするやいなや需要はいっぺんに減りました。暫くして値上げのショックが醒めると、新しい価格は人々から受け入れられたのか販売台数が再び増加してきました。会社側はさらに2,700ドイツマルクにまで値上げするつもりでしたが、さすがに今回の売り上げ減からさらなる値上げについては思いとどまる事となりました。

1954年、K.R.175は『Das Auto』誌のテストドライバーによって試乗されました。その結果「メーカーはこの車の弱点を改善する必要がある。」と評価されました。とくに目立った欠点の一つとしてキャビン内の激しい騒音と振動が上げられていました。
こういった欠点やその他の幾つかの弱点については、すでにフェンドは対策に取り組んでいました。セミオートマチック・トランスミッションはすでにもっとも一般的なトランスミッションへと変更されていました。トランスミッション型式の変更により、屋外での修理も簡単になりました。またより車らしくするために、バイクのようなキック式スタートをやめてダイノスタートが採用されました。始動方法は足元にあるフットスイッチを操作するだけで良くなりました。


■2スト2気筒エンジン搭載が予定されていたKR200


1954年の初旬、ボデイーがより流線形となり、よりパワフルなエンジンが搭載された新型車両『K.R.200のプロトタイプ』が完成しました。この車両には200ccで2ストローク2シリンダーのRiedel製エンジンが搭載されていました。数々の新機軸が採用された新型車両は最高速が100km/hで、それでいて走行中は騒音も無く不快な振動も殆どありませんでした。この新型エンジンはリーゲンスブルク工場で生産する上でも都合がよかったのです。ところがRiedel社はフェンドが必要としているだけの台数のエンジンをすぐに供給することが出来なかったのです。そこでフェンドは急遽、必要分の200ccエンジンを直ぐにでも供給することが可能だったフィヒテル&ザックス社に無理をたのむこととなりました。フィヒテル&ザックス社のエンジンは1シリンダーであること以外には特に不利な条件はありませんでした。


■最高のキャビンスクーター、K.R.200の誕生


最新型K.R.200の3台には、総走行距離が2万5千キロにも達するテストドライブが行われました。破壊寸前までテスト走行が行われたこれらの車両は、テスト終了時には車体からまるで泣叫ぶような音を発していました。しかし3台ともテスト走行に耐え抜いて生き残ることが出来ました。

今では、本来のモーターサイクルとしての特徴はほとんど分からなくなり、車として望まれる特徴を持ち合わせるようになっていました。流線形のボディーはかなりスマートな外観を持ち、そして幾つかの新しい装飾が加えられた内装は最高の乗り心地と運転しやすい環境を与えていました。
エンジンをラバーマウントとし、後輪のチェーンケースを完全に密閉することにより、騒音と振動を減らすことが出来ました。さらにKR175と比べて前輪の車輪幅を150mm広げることにより素晴らしい安定感も生まれました。


前進ギヤーは後進ギヤーの役割も果たしています。いったんエンジンを切ったら今度はエンジンを逆回転でスタートさせるのです。まるでジョークのような話しですが、この車は唯一後進も4段変速なのです。

ガソリンタンクの増量、そしてステアリングハンドルに付いていたグリップコントロール式のアクセルを足踏み式に変更したこと等は、あきらかに有利でした。また特別オプションとして、ラジオ、外装
に合わせた内装色、スキーラック、時計、いろんな色のフロアーマット、ラゲッジラック等が用意されていました。これらの仕様の追加や快適装備はドライバーはもとよりパッセンジャーにとっても心地よい居住空間を提供することになりました。

再び雑誌にインプレッション・レポートが掲載されました。レポーターはK.R.200のことを「普段の足となるジェット機 K.R.200は、エンジンとシャーシが絶妙のバランスでかつ求めやすい価格のすばらしい車である。」と評しました。

1955年頃になると、市場はフェンドが過去に作っていたのと同じような、安価でちいさい車であふれかえっていました。しかし、フェンドの作った車の売れ行きはそれらの車を圧倒していました。
この当時の初期の広告手段としては、キーリングを配ったり、「セールス・ジングル」と呼ばれるショートソングを流したりしていましたが、たいした効果は期待されませんでした。

しかしAuto Motor Sports誌に掲載された記事はとても広告効果がありました。「ほとんど哀れみの意味で呼ばれてきたキャビンスクーターという車は、今では他の2シーターの小型自動車と競べてもなんら遜色のないほど完璧な車へと進化しました。しかもそれらの車と比べて遥かに経済的です。

いまや競合相手についてはなんら心配はありませんでした。K.R.200は以前にも増して売れ行きは好調でした。1955年の1年間にリーゲンスブルグの工場から出荷されたK.R.200の台数は、過去2年間に生産されたK.R.175の総生産数を遥かに超えていました。




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